ハイサイまいど!大学二年生、教授です。「宿題やりたくないから、学校行きたくない」というゆたぼんに対して、後で困るのは自分、自己責任と言う人がおるねんけど、ソレハチガウ!子どもには「学校行きたくない」という気持ちがあったとしても、親には、子どもを学校に行かせる義務がある!それで…まあ子どもが宿題やりたくないのをいいことに、親自身の売名のために使われちゃう子がいる。でも、子どもは、親とか、家庭環境にまで責任は負えんから。みんな、自己責任は、宗教や。自由に生きよう。信じたらアカン!じゃあ!
自己責任≠自由
ゆたぼんの物真似はこの辺にして、ここからは、真面目な話をしていきます。ゆたぼん君が学校に行かないのは、自分で決めたことだから、後で困るのは自分の責任です。しかし、これは「自己責任」とは言いません。あえて言うなら「自由」ですが、「自由」とは、自分の行動に責任を持つということなので、子どもに果たして自由を与えて良いものかという疑問は残ります。ゆたぼん君の父親(ここからはパパぼんと呼ぶ)のように、宿題をしたくないという子どもの意思に加担して学校に行かせないのではなく、宿題をしないと後で困るからと宿題をやるように促すことや、「電卓とかGoogle検索を使えばいい」と思考停止するのではなく、宿題の代わりとなる勉強方法を、パパぼんがゆたぼんに提供するのは、パパぼんの責任です。もしゆたぼんが、義務教育を通して身につくスキルを身につけずに大人になってしまったとしたら、それはパパぼんの「自己責任」です。ゆたぼんの「自己責任」とは言いません。
ここで、「自己責任」の定義をしておきましょう。自己責任とは、自分の影響か他人の影響かに関わらず、周りの環境も含めて全て自分に責任があるという考え方です。周りの環境には、親子関係、友人関係など、さまざまな人間関係を含みますから、子どもがしっかりと育たなかったのは、親の「自己責任」ということになります。あまり認めたくはありませんが、家庭が貧困で、子どももまた貧困から抜け出せなかった場合も、親の「自己責任」となってしまいます。
自己責任論は、どこまで適用されるべき?
ここまで、私が「自己責任」と言ってきたのは、全て赤の他人に対してでしたね。このように、自己責任論は、他人に対して負う責任をなるべく最小限にしたいという考え方が根底にあって、自分と関係のない他人には責任を負わない、「自己責任だ」と言うものです。これは「自由」とは違いますね。自由というのは、自分が自由であるのと同時に、他人にも自由を保障すべきだという考え方なので、他人にも一定の責任を負わなくてはなりません。しかし、日本社会では、その役割を法律が代わりに担ってくれています。「自己責任論」とは、極端に言えば、自分がよそ見しながら道路を渡っていて車に撥ねられて、その運転手が逮捕されたとしても、運転手が全責任を負うべきだ、といった類の考え方になります。「自由」であれば、運転手が法律に従って責任を負わざるを得ない状況に陥らせてしまった、自分にも責任がある、となるでしょう。
しかし、「自由」を保障する法律にも限界があって、赤の他人同士のトラブルには適用しやすい一方、家族同士のトラブルや、知人同士のトラブルには一般論が通用しない面もあります。こうした背景から、いくら自己責任とは言え、知人や家族に対して、「自己責任だ」と突き放すのには無理があると思います。というのも、先ほど「自己責任」を定義したときに、周りの環境がどうであれ、自分が陥った状況の責任は自分にある、と言いましたが、それは、「周りの環境にもある程度責任を持った方がいい」ということになります。よく考えれば、知人や家族などとの人間関係においては、「貸し借りの関係ではない」対等な関係が良いとされていますが、その原則は、周囲に対して無関心になった瞬間崩壊しますので、自分が相手に責任を負い、相手も自分に責任を負うというのはごく自然なことなのかもしれません。
まとめ: 自己責任は宗教、他人に強制するべきではない
「自己責任論」は、縁のない赤の他人に対しては責任を負えないという当たり前の考え方が反映されたものに過ぎませんが、それを日常生活レベルで適用させてくる人がいたら、その人とは距離を置く必要がありそうです。また、「自己責任」を「自由」と同じ意味で使っている人がいたら、「自己責任」は「自由」ほど愛のある考え方ではないということに注意しつつ、ついつい納得してしまわないように気を付けましょう。