卒業文集ならぬ、「成人文集」を書いてみた


成人式前日

 成人式というのは、今でこそ本来の意味は薄れつつあるが、確実に言えるのは、ここで新成人たる我々が明確に、大人の一員となったことを意識する節目になるであろう、ということだ。私は、高校生活を受験勉強と怠惰に捧げてきたから、高校の思い出なんて無いに等しい。だから、卒業の実感もないまま、大学一年を、ただ単位を取るだけの機械として漫然と過ごした。二回生となった2019年、ようやく自分の人生が終わりかけているということを悟った。それは、体感時間に換算しておよそ半分を迎えたということでもある。また、「人生の前半」は誰かの言いなりになって過ごしただけで、自分の意思で心から人生を過ごしてきたとは言えない状態であったという点で、人間として「終わり」かけているということをようやく自覚した。実は、私は卒業文集で、そのような状態にある人のことを「飼い犬」と表現していた。当時は、「自分はこのような大人になりたくない」という意味で書いていたが、それは高校生の自分自身そのものだったのだ。卒業文集は、今までの自分を振り返り、将来に繋げることにこそ意味がある。当時の私は「振り返る」ことさえできていなかったのだ。

 成人式前夜を迎えた今、本来自分が書くべきだった卒業文集の姿を想像しながら、それでいて大学生活前半を振り返る内容を含めた、「成人文集」を書いていきたい。

タイトル「或る夜」

 おそらく、二時を過ぎた頃だろう。突然、忘れ物を思い出したかのように目が覚めた。どうやらまた、帰らぬ日の夢を見たらしい。ところが、その内容はよく覚えていない。目が覚めた瞬間にでも、不要な記憶として消し去られたのだろうか。しかし、夢の中では今でも日常が繰り広げられている。夢の中の私は、未だに卒業式前日にいるのだ。

 一体、何を好んで私にこんな夢を見せてくるのだろう。夢の中でかつての私の願いが叶おうとした瞬間に、どうせ夢は覚めてしまうというのに。ただ、一つだけ言えることは、夢が覚める瞬間まで私は幸せだったということだ。願望とか、未来予想なんてのは、それが現実になってしまえば呆気ない。なぜ願いが叶うことは幸せであると一般的に言われるのか、というのは、叶った瞬間に今までの全てが正当化され、あたかも自分が幸せな日々を送ってきたかのように錯覚するからに過ぎない。私はそれを決して、現実に見出すことはできなかったが、夢においてそれを叶えることができた。それで十分だった。過去はいくらでも変えられる。たとえそれが目を背けたいようなものでも、「幸せだった」と言っていいのだ。どうせ死ぬ瞬間には、朧げな意識で「いい人生だった」とでも考えているだろう。流れてくる走馬灯だって、都合のいい思い出ばかりに違いない。

 だからこそ、この最悪な現実から目を背けてはいけない。夢でしか願いが叶わない人生、走馬灯に現実の思い出がほとんど流れてこない人生、そんなもので満足するわけがない。決して幸せと言えるような日常でなくても、一度願ったことは死んでも叶えなければならない。とは言え、死ぬ以外に手段があればそれに越したことはない。卒業前に叶わなかった願望たちだって、諦めるわけにはいかない。彼女だって、作りたかったのだ。

 そのようなことを考えていると、眠気が吹き飛んでしまった。旅行中のホテルでは基本的に爆睡できるのだが、夢を見てしまったのは運が悪かった。早朝出発のため、ここから眠ってもあまり変わらないだろう。しかし、2時間ほど時間はある。私は充電ケーブルにつないである携帯電話を手に取り、知らない電話番号にかけた。

 「いま、空いている娘いませんか?」

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