新型うつ物語 第1話【私は一生、恋愛しません】

 大学のはずれ、住宅街に隣接する静かな場所で、私は、インターネットの海の中で掬い上げた電話番号にかけていた。周囲を気にしながら待っていると、やがて電話がつながった。相手は名乗らない。最初はそれに違和感を覚えたが、すぐにその理由を確信し、興奮気味に「予約をしたい」と伝えた。それとは対照的に、電話の相手は、「名前」と少ない言葉で返した。どうやら不親切な店員に当たってしまったようだ。しかし、多少すれ違いを起こしつつも、予約はできたようだ。「キャンセルはできません」という言葉を聞いたあと、電話を切った。本当にこれで予約ができたのだろうか。「45分前に予約確認の電話をします」とも言っていた。おそらく、その時点でホテルにいる必要はあるだろう。銀行でお金をおろしているときも、今自分がしていることの実感が全くと言っていいほど無かった。

 2万7千円。その大金に思いを馳せるとともに、今までしたくてもできなかったことが、お金によってできるという実感がわいてきた。しかし、これまでの人生をかけてしたかったことが、大学生にとっては大金でも、大人にとってはわずかなお金で実現できていいのだろうか。その現実離れした感覚は、高揚感と区別もつかないほどだった。それでも、心のどこかでは、このような手段を取らざるを得なかった自分自身を嘲笑していた。誰にも心を開いてこなかった、そのツケが回ってきたのだ。そして、大学生になれば自然とできると思っていたことを反省した。心を開かなければ人間関係は拡がっていかない。高校の方がむしろ、その機会は多かったはずなのだ。しかし、不幸にもそれらの機会に出会わない高校生活を送ってきたことを悔やんだ。そして気づけば、あと2週間で20歳になるという状況になっていた。

 当日予約したビジネスホテルの室内で、空調の音と鼓動を聞きながらその時を待っていた。40分前、携帯電話が音を立てた。取ると、予約の確認を先ほどの店員とは違う店員にされた。そして、どうやらこちらから電話を掛ける必要があったようだ。何はともあれ、1時間も経たぬうちにこの部屋で、異性の裸と対面することになるのだ。まずはその事実に心躍らせていた。初めて利用する客に対しては、ホテルまで送迎人が付いてくるようで、5分前にはホテルのエントランスで待機している必要がある、とのことだった。

 不安なので、10分前から、渋谷の街を行く人々を眺めながらエントランスで待機することにした。私も1年ちょっと前まではこの街の「住人」だったのにな、と思った。若者の街渋谷を歩く高校生の一人としての自分を思い返し、この街を全く満喫できていなかったことを改めて実感した。そして、渋谷という街を満喫した上で卒業していった多くの同級生に対する嫉妬の念が湧き上がってきた。しかし、もはや今の自分に、嫉妬という強い感情を起こす原動力は失われていたのだった。黒塗りの車が目の前に停まった。電話が鳴ったため、その車の近くで電話をするそぶりを見せると、車から立派な体の大人が出てきた。渋谷の街にいると目立つ外見であったが、表に出てこないだけでこういった大人は多く潜んでいるのかもしれない、とも思った。お金を払って注意事項を聞かされる。あなたが言ってるのだから絶対守りますよ、と心の中で強がってはいたが、早くこの時間が終わってほしかった。道行く人々に見られてすでにプライドなど無いに等しかった。

 そして、ドライバー兼集金人の男性と入れ替わって、ようやく後部座席から女性が出てくる。「よろしくお願いします」と言ったが、どうやらすぐにホテルに入りたいようだった。エレベーター内では他人であるかのように振舞った。私はそこで距離を近づけるほどの経験を持ち合わせていなかったのだ。部屋に入ってからも、女性にリードされる形だった。そして、「どこから来たのですか」と訊かれたので、この辺りに住んでいるということを知られたくなかったので、「東京周辺に住んでいて、今は旅行の途中です」と、適当に返した。この辺りに住んでいるというのに、ホテルまで予約をして店を使っている人であるとは思われたくなかったのだが、全くの他人にさえ心を開かないつもりだったのだろうか、この男は。モテないことはどうせ相手にばれているのだから、それを自分で言ってしまった方が良いことには間違いない。

 時間はあっという間に過ぎ、結局最後まで行かずに切り上げられてしまった。納得がいかないものの、「緊張してたのかもしれない」と相手に申し訳なさそうに伝えた。そして、女性が帰ったあとに処理を済ませて、そのまま眠りについた。今思えば、完全に失敗だった。2万7000円は高すぎる内容だった。しかし、ここで得た経験によって、繁華街にある店舗型に行こうというモチベーションにもなり、すこし高い学習代を払った気分で済んでいる。とは言え、最初に呼んだ女性に対して、2万7000円の元を取ることができなかった原因は、ひとえに経験不足であり、今までの人生を悔やんだ。

 「恋愛したい」と思わせるだけの魅力が無かったのだろうか。それとも、他人に心を開いていれば良かったのだろうか。どうやら大学生のうちは、前者が重要らしい。そして、20代も後半になってくると、前者の重要性は変わらず、「お金」という救済措置がようやく重要になってくる。あくまでも、お金が得られるから疑似恋愛行為もできるという気持ちなのだとしたら、それは拒否した方がいいだろう。同じ疑似恋愛をするのであれば、こちらから店に行く方が断然良い。高校時代に勉強して、有名大学に入った結果がこれなのだろうか。この世は最悪だ。

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