新型うつ物語 第0話【空っぽの6年間】

まえがき

 レールを外れたら終わり。これは或いは、日本特有の感覚なのかもしれない。漠然とした、「定められたレールを外れることの恐怖」を抱きつつ、私は生きてきた。しかし、レールを外れなかったからと言って、それが成功に繋がるとは限らない。そこに敷かれたレールが、奈落の底に続いていたりするのだ。「レールを進んできたから成功した」というのは、ただの成功者の言い分だ。成功者の言い分ばかりを聞いてきたから、「レールから外れる」ことに対する救済は封じられてしまった。むしろ、レールから外れたのは自己責任などと、的外れなことを言われてしまう。誰もがレールを外れることに対する恐怖を共有しているにも関わらず、実際にレールを外れてしまった人を目撃したとしても、他人事だ。

 私は幸いにして、レールに踏みとどまってきた。しかし、中学から高校にかけての時期には何も成し遂げることができず、今後の人生において重要となる経験をせずに過ごしてきた。傍から見れば、「何も行動しなければそうなるだろう」と思うかもしれない。しかし、レールを外れかけた人に対しても他人事なのだろうか、と私は思う。人生において、何も行動していない人などいない。うまくレールに乗ってきた人だって、その行動が、偶々運よく結果に繋がっただけだろう。「レールを外れたら終わり」というのは、ある意味筋が通っている。しかし、運が悪くレールを外れた人にとって、その意見は冷酷そのものだ。

 中高一貫校に入学した後、半年で大学受験向けの塾に入った。しかし、そのレールの先には、「第一志望不合格」という地獄が待っていた。その結果を分かっていれば、レールを外れてでも、別の方法を模索していたことだろう。或いは、貴重な高校生活を謳歌することもできたに違いない。もしもどこの大学にも合格せず、浪人していたら、私は今いるかどうかも分からない。当時は、「浪人してもうまく行かないだろう」という圧倒的な自信のもと、現役での進学を選択したのだ。不幸中の幸い、と人は言うだろう。そうした人たちは、6年間の、人としての思い出が空っぽであることのつらさを決して理解しない。6年間を通して、成し遂げたことが唯一、「(第一志望ではないにせよ)大学合格」であることが何を意味するか。それは、「6年間機械として生きてきた」ということだ。私自身も最近までこれを理解できなかったし、両親や、数少ない友人に理解してもらうのも容易ではなかった。

 「6年間の人間としての記憶が抜け落ちている」ということは、過去のこととして片付けてしまえないのも現状だ。このような「空っぽ」に付け込んでレールから引きはがそうとする人やモノも多い。ついこの間、自己肯定感がまるで無かった時期に「意識高い系の就活塾」のアンケートに、愚かにも個人情報付きで答えてしまったところ、勧誘の電話がかかってきて、危うく入会させられるところだった。行く直前にネットで下調べしたところ、過去に指導が入ったブラックな就活塾だったことを知り、ドタキャンしたのだった。今回は良かったものの、6年間の空白を放置したままでは、ふとしたことがきっかけでレールを外れる危険性は上がってしまう、と感じた。

 そこで、当時の自分を俯瞰的に見る形で、今日からエッセイを書いていこうと思う。もちろん、ブログとしても読めるように、小説とブログの中間のような文章を書くように心がけていくつもりだ。書き終わるころには、「6年間の空白」を埋められていることだろう。あくまでも自己満足というのが前提で、検索流入などはあまり期待しないことにするが、偶然にも目にしてしまった人がいたとして、その人に対する何らかのメッセージ性などは意識していきたい。空白の6年間を過ごした過去の私には、せめて反面教師として役に立ってほしい、というのが私のせめてもの願いである。

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