中学から高校にかけて私は、自己を抑圧した生活を送ってきました。このような生活を送っていると、自然と、「自分よりも他人」という考え方が身についてきてしまいます。そして、この「他人を優先する」という考え方は、他人を本当の意味で信頼していないということを表しているということがわかりました。それでは、他人を信頼していないということは、信頼できるのは自分だけということでしょうか。
自分を愛さなきゃ他人も愛せない
しかし、自分を抑圧してしまっている時点で、それは自分のことすらも信頼していないということになります。そして、他人に対して自己投影することで、他人のことも信頼できなくなってしまいます。信頼できなくなるのが自分からか他人からかは、それこそ「ニワトリが先か卵が先か」のような話になってしまいますが、この悪循環を断つにはたった一つ、「無条件の愛」が必要です。
「自分は取るに足らない存在」から抜け出せなかった
この項では、私自身が「無条件の愛」を学ぶまでに至った経緯を説明しています。「無条件の愛」とは何か、という結論を知りたい方は読み飛ばしてもらっても構いません。
私は中学受験で第一志望に合格しなかったため、父親に薦められて中学一年の夏の時点で大学受験向けの塾に入りました。しかし、当時は入試に落ちたことによって自己肯定感がそこまで削がれた記憶が無く、何となく塾に行くくらいだったら、やめておけば良かった、と後悔しています。実際に、自己肯定感がまだ高い状態だった証拠として、共学校において異性を好きになることもできましたし、同級生との会話も楽しみ、人間関係を無理なく構築することができていました。しかし、年を経るにつれて、次第に上手く行かなくなっていきました。というのも、他人の言う通りにしておけばいいという考え方に支配され、自分主体で何かしらの行動を起こすという気持ちを次第に忘れていったからです。塾の宿題も重荷となり、余裕も無くなっていった時期と丁度重なってしまいました。部活も、「こんなんじゃ来てる意味がない」と先輩に言われて行かなくなってしまいました。おそらくこのあたりから、「自分はいてもいなくても変わらない」という考え方が私を支配するようになったように思います。高校一年のときには北陸、北海道、関西近郊など、鉄道を趣味として旅行に頻繁に出かけていましたが、やはりというか、その考え方を変える手助けにはなりませんでした。鉄道に関しては今も趣味として続いているので、その点だけは良かったですが。
話は戻りますが、この考え方を払拭するには、「自分がいないと始まらない」という経験をするしかありません。それを一般的には、「インプットからアウトプットへ」という移行の過程を経ることによって実現します。その中には、自分の気持ちを素直に表現して、他人に伝えるということも含まれます。思い返せば、中学から高校にかけて、自分の気持ちを表現したことは滅多にありませんでした。端的に言えば「コミュ障」ですね。小学校においては、遊びを媒介して他の人と関わっていくことができましたが、中学校より先は、何を媒介して人と関わっていくかを、コミュニケーションを通して決めていくということが必要になってきます。結果的には、高校を卒業するまで、私は小学生のままでした。いや、むしろ、遊びすら媒介にできなかった時点で、小学生からさらに退化していたと言えるでしょう。高校卒業の時点で、もはや「自分はいない」も同然でした。普通であれば、学校生活自体を媒介として人と関わっていくというのが王道でしょうか。自分とは縁のないことでしたが。
大学一年で全てを取り戻したが…
不完全な状態ではありますが、大学一年の時点で、学校生活を媒介として人と関わるという経験を、初めてながらようやくできました。サークルに入って初めての合宿にも行きました。しかし、本来6年、受験勉強の分を差し引いても4年近くかけてそれらを経験して初めて、自分の存在価値が形作られていくのですから、1年では到底挽回できません。それどころか、自己肯定感が周りに比べて相対的に低い結果、不都合が生じてしまうこともありました。その結果私は…
全てから逃げました。
しかし、こうした中でも変わらぬ人間関係を維持しようとしてくれる人たちも多く、その点感謝してもし足りません。周囲の人には本当に恵まれたな、と思います。それはそれとして、次に私は、「お金を媒介として人と関わる」という道へと踏み込んで行きました。
「無条件の愛」の正体
お金を媒介として人と関わる、つまりそういう店に行くということを指しますが、そういう店ということは、金銭が関わった「愛」ということであって、「無条件」ではないではないか、という疑問をお持ちかもしれません。しかし、結果的に私は、この経験を通して、「隣人愛」を学びました。この「隣人愛」というのは、言葉では理解していましたが、それを実際、身の回りに溢れているものとして認識することはできていませんでした。私には隣人愛が足りていないということをはっきりと認識しました。それとともに、隣人愛は、与えたらそれなりに返ってくるという、今までの自分の人生には無かったような夢のようなモノだということを実感しました。
まとめ
自分の場合、金銭の関わった疑似恋愛を通して隣人愛を学びましたが、今この記事を読んでいらっしゃるあなたが、「自分のことを抑圧しすぎている」「自分の気持ちに素直になれない」と感じているのであれば、それに気づいて、その状況を打開したい、と思った瞬間から隣人愛は芽生えてくる、と考えてもらっても良いでしょう。情けは人のためならず、まさに隣人愛というのは自分のためでもあるのです。