在洛報道機関の言い分
京都アニメーションの放火殺人事件で、京都府内の報道12社でつくる在洛新聞放送編集責任者会議は、犠牲になった35人のうち25人の身元を発表していない府警に対し、速やかな公表を求める申し入れ書を提出しました。https://t.co/XWCejrFPhA
— 時事ドットコム(時事通信ニュース) (@jijicom) August 20, 2019
報道12社とは、NHK、朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、日本経済新聞、共同通信社、産経新聞、時事通信、京都放送、京都新聞、中日新聞、日刊工業新聞となっている。つまり、日本の報道を司る報道機関たちだ。まず言いたいことは、
マスコミに実名がわたった時点で、それが報道されないはずはない
ということだ。マスコミの中には、「真実を伝える」という正義感を勝手に膨らませてる人がいる。そうでなければ、ここまで寄ってたかって実名公表を京都府警に懇願したりしないだろう。しかし、報道において実名報道が原則とされたのには何らかの理由があるはずだ。それについて興味深いツイートがあった。
確かにこのツイートはとても理に適っており、「悲しみは十分伝わっている」し、「ご遺族の意思を踏みにじってまで視聴者が本当に知りたいことではない」というのが世論だと思われる。実名報道と、マスコミのサイコパス的現状とは相性が非常に悪い。このツイートには続きがある。
この一連のツイートの趣旨は、こういうことだと思う。
実名報道がこれまで信用のおける情報として役に立ってきたのは、警察だけでなくマスコミにその情報が共有されてきたからである。
確かに、警察という一組織において情報が秘匿にされるという場合を全てに適用してしまえば、警察による権力の濫用に繋がる、というマスコミの言い分も、「国家権力を監視する」というモットーに照らしてみれば分からなくもない。しかし、ここで私は言いたい。
マスコミは、今まで事件の被害者とどれだけ信頼関係を築けてきた?お前らが嫌っている国家権力とやらに匹敵する信頼を、本当に得てきたのか?
言っておくが、信頼関係を築くということには、「被害者に寄り添う」ということも含まれている。しかし、これを建前としている記者たちのうち、どれだけが本当にそれを実現できているだろうか。そもそも、被害者に寄り添うのであれば、紙面や報道ニュースなどで実名を大々的に報じるべきではないだろう。それでも、
「マスコミは基本的に国家権力を信頼していない。同じように国家権力を信頼しない人たちの知る権利を阻害してはいけない」
とでも言うつもりだろうか。それでは、そのような方たちのために、実名報道に変わる報道をお教えしよう。
マイナンバー報道
先ほどのツイートには続きがあった。おそらくこれが、記者たちのほとんどに共有されていないものの、脈々と受け継がれてきたマスコミの理念を表しているだろう。
地名や人名を正確に伝えることは重要であるという。それは確かにそうだ。何らかの事故があった際には、ニュース番組中でも、所在地こそは言わないものの大まかな場所を報道する。しかし、その役割をマイナンバーに置き換えても何ら問題はない。というのも、人名は出生届を提出した瞬間から行政によって管理されている。いくら国家権力を信用していないからと言っても、それには限度があるはずだ。人名は良くてマイナンバーは良くない、とする言い分は通用しない。
例えば、登録時に氏名と生年月日を入力する必要がある書類があったとしよう。名前だけでは同姓同名の人がいる可能性があるため、生年月日やその他家族の情報などによって、たった一人しかいないことを証明している。しかし、マイナンバーを書けばそれらの情報を置き換えることができる。もちろん書き換えなどのリスクは署名に比べて増えるのだが。コンピュータだって、内部においては、氏名は数字の羅列によって表される。マイナンバーだって実質同じだろう。
しかし、マスコミはこう言うに違いない。
マイナンバーは行政に確認しなければ分からない。行政が嘘をつく可能性もあるだろう。
確かに、氏名であれば存命であれば被害者に、それ以外であれば被害者遺族に確認を取ることで、マスコミにとっては一定の信頼できる情報となる。しかし、