岡山で臨時列車の撮影を終えた後、私は大垣駅を発車する夜行列車に乗るために東海道線を乗り継いできた。しかし大阪を出発した頃、このまま日常に戻っていくのが惜しいという感情を覚えた。
すでにJRの路線を50%以上乗車してきたが、その路線の中には、今後二度と訪れることがないだろう、と思われるものもあった。「終わり」が見えてきたこの状況だからこそ、新しい路線に乗車するときには、それが一度きりになるかもしれないという心持ちでいるようにしていた。
大学受験を控えていた高校生の私は、今後鉄道と疎遠になってしまうかもしれないことを悟っていた。後ろ髪を引かれるように東海道線の乗り換え駅である、草津駅で下車した。この電車を逃しても、一つ後に乗れば大垣駅で乗り継ぎできる。ところが、私はためらうことなく草津駅の駅員さんに、「この切符の払い戻しをお願いします」と、夜行列車の切符を渡した。
草津駅前のファストフード店で夜食を済ませ、終電の1時間前には駅に戻っていた。決してお金がなかったわけではない、当時の私には飛び込みでホテルに泊まるという発想が欠如していた。いや、もしあったとしても泊まることはなかっただろう。草津線の滋賀県内最後の駅、油日駅(あぶらひ)で一夜を過ごすことをすでに決めていた。
平日の草津線は終電間際であっても帰路につく乗客が、東海道線から乗り換えてくる。早朝には草津線から京都や大阪直通の電車が設定されているほどである、規模が小さいながらも典型的なベッドタウンの路線であった。
そのような乗客の中でただ一人、私だけが帰る場所もないのに電車に乗っていた。しかし、そのことを気に留める乗客はいなかった。電車の本数は30分に一本ほどであり、毎日同じ電車に乗るわけでもないため、彼らが他の乗客の顔を覚えているわけはなかった。
油日駅に列車が滑り込む。ここで私は、一晩過ごせるかどうかの確認を行うつもりだった。椅子が撤去されていたり、待合室が吹きさらしの状態であったりした場合は、次の終電で県境を越え、草津線の終点である三重県の柘植駅(つげ)へ向かってもよいと考えていた。
多くの乗客をおろした列車は、終点へと空気を運んでいった。他の乗客は私に目をくれることもなく、それぞれの家へと帰っていった。一人残された私は、待合室に空調が入っていることに気がついた。一夜を越すのに、こんなに居心地の良い駅があって良いのだろうか。終電が行ったらシャッターが閉まったりしないだろうか。
しかし、すでに駅員は帰ってしまっており、閉められる必要のあるシャッターは閉められていた。これは、シャッターが手動で閉められたことを表すに違いない。シャッターが自動で閉まって閉じ込められ、警備会社に連絡が行くこともなさそうだ。
終電が行ってしまうまで、私はホーム上で接近メロディを収録している雰囲気を出していた。待合室のベンチに座っていても良いが、それではただの行くあてのない人になってしまう。怪しまれて近所の人が駆けつけてしまうかもしれない。どうせ怪しまれるのであれば、「鉄道ファン」であると思われたかった。
接近メロディも鳴り止み、最終電車は行ってしまった。駅には静寂が訪れ、それに続いてホーム上の蛍光灯が落ちる。待合室の明かりは点いたままだ。寝るのには苦労するが、安心感はある。
後戻りのできない場所に来てしまった。しかし数時間も経てば次の日がやってきて、もうしばらくの間、旅を続けることができる。自分の身の安全が心配で寝付けないというのが一番とは思うが、その理由の中には、すぐに再び、旅が始まることへの高揚感もある気がした。
漠然と何かを成し遂げたいと思っていた、高校生の私。実際は、特定のコミュニティに所属することもなく、勉強漬けの毎日だった。それでも鉄道という趣味を見つけ、それを極めようとしていた。しかし、受験勉強という壁が立ちはだかり、ついには趣味で何かを成し遂げることすら不可能にも思えた。
JR線の完乗を目指す旅も、一旦今回で休止となる。達成できるのは10年後か、20年後か、まだわからない。けれど、夢半ばで挫折して、達成できなかったとしても良いではないか。高校生の自分には気づかなかったことだ。
なぜなら、何かを成し遂げたとしても、それがほんの一部に過ぎないことを知るからである。JRを完乗したら、私鉄にも乗っていない路線がある。廃線、未成線も歩くことになるだろうか。バスにも乗るかもしれない。これから開業する路線はどうだろうか。自分が死んでしまえば乗ることもかなわない。
それらを全部成し遂げようとしても、その中身は薄くなってしまうに違いない。それよりは、どこかで線を引いてその中を充実させた方がいいはずだ。夢を夢のまま留めておくことも時には大切だ。本当に叶う夢であれば、その機会は案外簡単にやってくる。
だからこそ、乗りたい路線に乗りたいときに乗るのが一番良い。その良さを教えてくれた高校生の自分に感謝したい。
大人の自分に感謝されることも知らない高校生の私は、4時まで眠れずにいると、駅前に人の気配を感じた。業務委託駅である油日駅を有志で管理していらっしゃる、地元の駅員さんだ。「油日駅を守る会」と言うらしい。
ベンチに座った私を見て不思議がることもなく、閉じていた二枚のシャッターを開け、ラジオをつけた。このような性質の駅なので、泊まる人も過去にいたのだろうか。始発列車は、草津へと向かう電車が二本続いた後に、下りの柘植行が来る。利用客もいると思うので、しばらく駅の周辺を散歩して時間をつぶすことにした。
駅に戻ると、ラジオから最新の曲が流れていた。東京のスタジオから放送しているらしい。ようやく東京に戻る気が起きてきた。しかしここは、まだ滋賀県である。途中の景色を見逃すことなく、一歩一歩踏みしめながら、列車を乗り継いで東京に帰ろう。
下り列車に乗り込み、後ろを振り返ると、駅員さんがホームに出て、発車合図をしていた。いつか再び、この場所に帰ってこよう、そう思った。
帰る途中の列車では爆睡だったのは、言うまでもない。