日本創世紀【群馬編】三波川変成岩を上昇させた運動とは

日本創世紀【群馬編】三波川変成岩を上昇させた運動とは 地質学

あらすじ

高校地学では、日本列島の大半は付加体(プレートの沈み込みに伴って海洋プレートの表層部を構成する玄武岩や堆積岩が大陸側に押し付けられたもの)によって形成されているということを習います。

しかし、沈み込み帯で起こる作用は付加だけではなく、構造侵食(造構性侵食)も起こっているとされています。これは沈み込む海洋プレートが、大陸プレートの下部を削り取る作用であり、大陸を成長させる付加作用とは真逆の作用です。

沈み込み帯で起こる作用としては構造侵食の方が付加作用よりも一般的と言われており、付加作用は沈み込むプレートが比較的若く、沈み込みの角度が浅いときに限定して、大陸を成長させる役割を果たします。

以上のように、付加作用だけで日本列島のような陸地が大陸縁辺に形成されるわけではなく、それらが構造侵食によって失われないためには、比較的若いプレートが沈み込む必要があります。日本ではフィリピン海プレートにあたります。

東北日本(フォッサマグナよりも北側)についてはここ数十万年、長くても数百万年程度の急激な地殻変動によって現在陸地になっていますが、西南日本はここ数千万年間のフィリピン海プレートの継続的な沈み込みによって、緩やかながらも安定的に陸地を形成しています。

このように日本創成に重要な役割を果たしたフィリピン海プレートを感じることのできる場所が群馬県にあり、それらを日帰りで訪問してきたので、以下に旅行記という形でまとめていきます。

谷川岳

谷川岳を始めとした越後山脈はフォッサマグナの北側に位置していることから、1500万年前の日本海拡大時に伸長場に置かれ、海の底にありました。

その後東北日本の多くの地域は第四紀以降に隆起することで陸地になりましたが、越後山脈はそれよりも少し早く、500万年前に石英閃緑岩を始めとした深成岩の貫入が比較的広域に起こり、それによって陸地化したと考えられます。

上越線は利根川を渡りながら越後山脈へと向かう

水上駅で一旦乗り換え

土合駅に到着

下り列車から降りると、この階段を登らなければならない

登山前のウォーミングアップには丁度いい

川沿いに落ちていた閃緑岩

谷川岳を見上げることができる一ノ倉沢への道中、湯檜曽川沿いの紅葉

マチガ沢の氷成堆積物。大小の石が混在している

一ノ倉沢に到着した。

一ノ倉沢からは谷川岳の稜線を横から見ることができます。観察すると、氷河が削った下半分は白色で、先ほど川沿いで見た閃緑岩の色が見える一方、上半分は黒色です。この部分は、「上越帯」と呼ばれる、蛇紋岩や結晶片岩により構成された地質体が、深成岩の貫入により接触変成作用を受けたことで、侵食に強く山頂付近に残ったものです。

ここからは持論ですが、越後山脈では北北西−南南東方向に稜線や川が形成されているように見えます。これはその方向に岩脈が形成されたことで深成岩帯が貫入し、それらの多くが第四紀に地面に現れた後に侵食されたことを示していると考えられます。

ここで、岩脈は圧縮が最大になる方向に形成されるということから考えると、その原動力をフィリピン海プレートの方向に求めることができます。そちらに目を向けると、500万年前に丹沢山塊が本州に衝突していることから、それに伴って当時の火山フロントである越後山脈周辺で火成活動が活発化したのではないかと考えています。

帰りの車内から見た榛名山。

現在の太平洋プレートに対する火山フロントに位置する榛名山や赤城山も、活動を開始したのは50万年前以降とされています。これらは、現在の伊豆半島が100万年前以降に本州に衝突したことに対応していると考えることもできます。

このように沈み込み帯の火山フロントにおける火山活動は常に一定というわけではなく、丹沢や伊豆半島の衝突など、大きな圧縮力が働いたときに活発になるのかもしれません。

下仁田

下仁田では三波川変成帯の特徴的な岩石である、緑色片岩を多く見ることができます。これは、海洋プレートを構成する玄武岩が沈み込みに伴い低温・高圧の条件で変成作用を受けたものが、何らかの理由で地表部分まで上昇してきた岩石にあたります。

中央構造線は、白亜紀に火山フロント付近で高温・低圧の条件で形成された領家帯と、海洋プレートで低温・高圧の条件で形成された三波川変成帯が接していることで知られていますが、これにもフィリピン海プレートが関係しています。

2500万年前には、現在の伊豆・小笠原海溝にあたる海溝は、現在よりも西の九州付近から南に伸びていました。その場所で太平洋プレートは当時のフィリピン海プレートに沈み込んでいましたが、背弧海盆と呼ばれる、火山フロントよりも陸地側に形成される伸長場に対してアセノスフェアが上昇・流入することで、海洋地殻が形成され始め、海溝が太平洋側に移動しました。当時の伊豆諸島、小笠原諸島の名残が、九州・パラオ海嶺であると言われています。

この出来事は「四国海盆の拡大」と呼ばれ、1500万年前まで続きました。これに伴い、西南日本には引き伸ばされたプレートが沈み込むことによって、浅い角度での沈み込みを開始し、付加が進行しました。これによりプレート付近にあった三波川変成岩は、下の付加体に持ち上げられるようにして上昇していき、領家帯と三波川帯とを隔てていた途中の地質体は上昇して地表で侵食されるか、下降して高温により融解するかのいずれかにより、その多くが失われました。

高崎駅からは上信電鉄で下仁田を目指す

富岡製糸場には目もくれず

下仁田駅に到着。

荒船風穴も絹産業の関連で世界遺産に登録されている。

荒船風穴は、950万年前に形成されたカルデラの陥没により、岩石間の隙間が多いことを利用した、蚕を保存する天然の冷蔵庫として使われたことで世界遺産に登録されています。このとき形成されたカルデラは「本宿コールドロン」と呼ばれ、同じ時期にフィリピン海プレート側では、御坂山塊の衝突が起こっています。今回は時間の都合上行けなかったですが、いずれ足を運びたい場所です。

下仁田層の説明。2000万年前に形成された砂岩により構成されている。

三波川帯(下)が下仁田層(上)に接している。断層だったため、脆くなっている

西南日本で見られる中央構造線では、領家帯と三波川帯が接していることが多いですが、下仁田ではフォッサマグナ形成時に領家帯側が大きく沈降して海になったため、下仁田層を始めとした堆積岩の層が形成されました。

その後、堆積岩と三波川変成岩との境界に新たに逆断層が形成されたと考えられます。これは1500万年前に四国海盆の拡大、日本海の拡大が停止して以降、フィリピン海プレートの沈み込みが北方向に開始したことによるものです。

つまり、下仁田層と三波川帯との間に形成されていた断層は、地下に存在するであろう、領家帯との境界における断層の延長線上にあると考えられます。中央構造線そのものであると断言できるわけではありませんが、異なる地質帯が接することで形成された断層という意味では、広い意味での中央構造線に当てはまるとも言えます。

青岩公園では、緑色変成岩が広い範囲に露出しているのを見ることができる。

外見はきれいな青色だが、中身を割って見ると鉄が赤く酸化していることも。

山地に足を踏み入れると、三波川変成岩の上に山地を構成する跡倉層が接している。

三波川帯の上位には、跡倉層と呼ばれる白亜紀以前の付加体が、三波川帯の上昇および、フォッサマグナの形成に伴う侵食を免れて山地を形成しています。このように、山頂部を構成する岩石と、その地下を構成する岩石が異なる山は「クリッペ(根無し山)」と呼ばれます。

跡倉層に形成された褶曲構造が見られる、「大桑原の褶曲」

徒歩での行動が基本のため、今回は荒船山には行けなかった

三波川変成岩は、下仁田や長瀞などの関東山地より西側、大分県の佐賀関半島まで見ることができます。これらの岩石はかつては地面の底、海洋プレートが沈み込む場所にあった、ということだけでも理解しておくと、長いスパンの話で一見非現実的な、「日本はかつて海だった」という言葉にも現実味が湧いてくると思います。

群馬県を日帰りで観光し、日本の誕生に思いを馳せることができた

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