平成の備忘録②「平成とはどのような時代だったか」

 今回は、少し説教くさくなってしまうかもしれない。皆さんは、平成最後の夏を、どのように過ごしただろうか。振り返ると、災害の多い夏だった。私が8月に京都に行ったときも、猛暑と夕立とが交互に押し寄せる感じだった。夕立はともかく、猛暑は災害レベルだったというのは言うまでもない。9月に西日本に行って、紀伊半島、九州、山陰を回ったときも、台風上陸前夜に大阪に宿泊し、それから逃げるように新幹線で山口県まで一気に移動した。台風が北上したかと思えば、胆振地方東部で地震があり、私と同様の乗り鉄で、北海道を旅行していた方が足止めを食らっていたのをTwitter上で見ている。そう言えば、そのとき私のいた島根西部でも、今年の4月に地震があったなあ。梁が歪んでしまった木造の建物も、江津や出雲市あたりで見た。
 正直に言うと、私が「平成」に持つイメージは、「終わりの始まり」だ。平成の期間は30年と4か月弱ということになったが、30年は、人間の一世代だ。「昭和」にとっては、「平成」は子にあたり、次の元号は孫にあたる。今の時点で、昭和の名残は減ってはきたものの、まだ残っている方だと思う。しかし、そういった昭和の名残が減るペースは今後加速していくと思われる。私は昭和の時代を生きたわけではないから、平成の世に残る昭和をもとに、昭和をイメージするしかない。しかし、昭和には、漠然とした良いイメージが、なぜかある。それは、平成に変わる瞬間を見てきた人たちが、平成と言う新しい時代になってもなお、昭和を尊重していた証拠だと思う。
 平成は、今後の時代に何を残してきたか、また、これから何を残していくだろうか。一つは、「未曾有」という言葉に代表されるように、自然災害に対する、克服から共存への変化だ。建築の分野でも、複数回の地震で必ず倒壊しない建物というものは求められていない。また、克服するにしても、完全な克服は不可能であり、今までは克服できていたという思い込みが否定された形になる。コミュニケーションの世界でも同様のことが言える。完全にわかりあうことは不可能だが、共通の認識を持つ必要はある。大切なのは「共有」だ。そして、共有を前提とした議論においては、分かり合おうとする姿勢に重きが置かれる。「分かり合う」とは、他人に対して「レッテルを貼る」ことだ。ここでは、よく見られる偏見に基づく評価という意味ではなく、意味付けという意味で使っている。基本的には、「レッテルは区別する以外の目的で貼ってはならない」と思っている。平成という時代を通して言えるのは、様々なものに対して、この「レッテルを貼る」という作業を行ってきたということだろう。それは、よく使われる言葉に言い換えると、「多様性を認める」ということだ。人それぞれに、異なる背景が隠れている。それらを否定することなく、理解する。
 しかし、排他的な人が一定数いるというのも事実だ。彼らは、よく使われる意味でのレッテル貼りを乱用する。なぜかというと、日本という国の性質として、緩やかな外部との繋がりがあるが、それを悪用しているからだ。だから、「多様性」という言葉を別の意味で解釈したりする。彼らの解釈では、多様性の名のもとに、明確な境界を設けている。そうではなくて、日本人としての多様性は、明確に区切られない、人それぞれが緩やかに異なっており、その異なりを認めるという共通認識のもとにあるのだ。
 さて、「平成とはどのような時代だったか」。最後にカッコつけたいというのもあるが、それは各個人が意味を見出していってほしいと思う。ルールは一つだけ、「間違いなく平成を生きてきた自分自身を、否定しないこと」である。

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