竹芝埠頭から乗船
成人式の夜、私は京浜東北線で浜松町へと向かっていた。高校の数少ない友人が同窓会に参加している頃だった。午前中には地元の成人式に顔を出したが、誰ひとり知っている人を見つけることができなかった。
しかし、不思議なことにその事実をあっさりと受け入れることができた。すべてのものごとは常に変化していく。それにも関わらず過去の知り合いに会いに行くということは、当時の自分を偽らなければならないということを意味する。そこまでして過去に固執するつもりはない。
同窓会には一生行くつもりはない。「変わらない過去」を求めて行くのだとすれば、それはとても愚かだと思っていたからである。いや、それだけではない。「すべては変化する」という、当たり前の事実から目を背けたかったのだ。
そのために一日ほど都会を離れ、伊豆大島へと向かうことにした。調布や羽田から飛行機も出ていたが、旅情を感じるためにフェリーに乗った。というのは建前で、バイトでの稼ぎが少なかったためである。学生生活もバイトも充実していない、私のような人のことを、世間では「真面目系クズ」とでも言うのだろうか。
幸いにしてフェリーでの宿泊には慣れていた。2019年3月の北日本一周では、一週間弱の旅行の中で新日本海フェリー、津軽海峡フェリー、シルバーフェリーを乗り継ぐという快挙を達成した。また、2019年4月の四国一周では往復ともジャンボフェリーに乗船し、乗船客が多い中での短い睡眠時間に耐えた。
成人の日を含めた三連休の最終日であり、乗船客は比較的多かった。そうは言っても、隣の人との間隔は十分あった。彼らは島しょ部の住人に違いない。そうすると、三連休を利用して東京での観光を楽しんだ帰りであろうか。あるいは、島しょ部に勤務先があり、年末年始のタイミングで本土にある実家に帰省した帰りかもしれない。
その中でおそらくただ一人、観光客として伊豆大島へと向かっていた私は、ここまで住民の生活に密着したフェリーがあるということに感動していた。これまで乗ってきたフェリーは遠距離移動の目的が主であり、運送業界の方々を除けば、定期的に利用する人は少ない印象だった。
しかし、島しょ部へのフェリーには飛行機を除けば代替手段がない。その飛行機も、昼にしか飛んでいないから、一日を有効活用するためには乗るのが勿体ない。フェリーであれば夜に出て朝に着く。ゆったりとした時間が流れる海の上にふさわしい乗り物である。そこには間違いなく、変わらない日常があった。
岡田港到着、三原山登山
大型船は原則は伊豆大島北部の岡田港に到着する。岡田港からは元町港へのバスが出ているので、それに乗車することで中心部に向かうことができる。私は三原山に徒歩で登ることにしていたが、岡田港からでは遠いので、元町港の手前まで乗車した。
元町港から三原山までの徒歩は、舗装された道を登ることができる。むしろそれ以外の登山道のようなものはないので、外輪山まで連続して上り坂が続く。そのため、途中で休憩を挟みながら着実に登っていった。
外輪山を登り切ったが、観光の拠点となる建物には人の気配が全くなかった。また、他の観光客の姿もなかった。フェリーで到着したその日に帰るという弾丸ツアーを敢行しているのだから当然であろうか。さらに、バスが着くであろう時間よりも早く着いてしまった。
中央火口丘へ
外輪山を越えると一気に開け、中央火口丘が見えてきた。私にとっての日の出はそれと同じタイミングであった。
中央火口丘には一周するコースがあり、お鉢巡りができる。中央火口を見ると、その大きさと深さに圧倒された。これほど深い地形は陥没により形成された地形である。玄武岩質マグマは周囲の岩石に比べて比重が高くなりやすく、地表付近まで上昇したものがすべて地表に噴出するとは限らない。こうして噴出しなかったマグマは、水平方向に形成された岩脈を通じて周囲に移動していくため、地下の圧力が減少することで陥没につながる。
蒸気が噴出する光景が所々で見られた。染み込んだ雨水が熱せられているのだろうか。地温がまだ高いことが伺える。
裏砂漠、植生の回復
厳密には国土地理院の地図で唯一「砂漠」表記のある場所らしい。降水量的には砂漠の定義に当てはまらない。
火山砕屑物の堆積を免れた地域では、植生の回復を草原から低木の順に見ることができる。
長時間の歩行後には汗を流すため、旅館併設の温泉を訪ねた。
どうやら超閑散期に来てしまったようだ。
三原山温泉からは出帆港の岡田港へと戻る。出帆港のアナウンスは三原山の中央火口丘を登っているときに聞いた。全島に渡って放送されるため聞き逃すことはないが、バスも出帆港に応じて行き先を変えてくれるので、間違える心配はない。
岡田港到着、帰還
4時間ほどの徒歩による疲れは、ご飯とお酒で癒そう。元町港、岡田港のどちらにもレストランがあるが、その日の出帆港で営業している。
三原山の噴火を神聖なものとして、「御神火(ごじんか)」というようだ。そういえば外輪山を登っているときの道の名前が「御神火スカイライン」だった。さらに、焼酎の名前にもなっている。今回は食事とともに、「御神火」を水割りでいただいた。
三原山を始めとした伊豆大島の地形は、比較的最近に形成されたものである。外輪山は1500年前のマグマ水蒸気爆発により形成されたものであるし、島南部にある波浮港(はぶみなと)は1000年前の割れ目噴火によって形成された地形に海が入り込んだものである。また、現在の山頂付近の地形の表面は1986年の噴火により形づくられたものといえる。
火山地形を見ていると、自分たちが見ている地形は大きな変化の間の束の間の安定を見ているに過ぎないことを実感する。そして、これほどまでに自然の威力を実感させられるような光景に、2時間程度徒歩で登るだけで出会えることに驚いた。伊豆大島の住民の暮らしがそれだけ、火山に密着しているということである。
しばらく足の疲れを癒やすように二等席に寝転がっていたが、ひと眠りして数時間も経つとそれに飽き、甲板に出て外の景色を眺めていた。日が沈む頃になるとやがて三浦半島や房総半島の姿が見えてきた。
東京発着の船は東京湾に入ってからが長い。レインボーブリッジをくぐる頃にはすでに暗くなっており、出発したときと変わらない夜景を見ることができた。
大きな変化の間の安定に身を置いていると、その安定がいつまでも続くのではないかという錯覚に陥る。しかし、そう思える中であっても変化は緩やかに続いている。ずっと変わらないように見える裏砂漠の光景でさえ、絶え間のない風のはたらきによって作られたものであった。
どこへ行っても変化から逃れることはできない。ならば全て諦め、緩やかな変化に身を任せるのも悪くはない、そう思った。