北見再訪を誓う
宿泊した層雲峡から、バスの「石北号」に乗車した。乗車するには事前の予約が必要である。そして、旭川発北見行の便は、層雲峡までは乗車のみで、温根湯からは降車のみとなるので、一度乗車したら、石北峠を越えるまでは降車できないということだ。
層雲峡からさらに石狩川を上流に遡り、その姿も見えなくなってしばらくすると、石北峠にさしかかった。相変わらずコンテナを載せたトラック「石北貨物」とはよくすれ違う。いつしか国道39号の名前は大雪国道から北見国道へと変わり、留辺蘂付近で石北本線と出会った。そういえば、前日に乗った上川から層雲峡への路線バスで、「ルベシベ橋」という停留所名を聞いた。北見もかつては野付牛で、北見はその地方一帯の名前だったらしい。室蘭本線にも、伊達紋別という駅があった。その本家(?)である紋別駅は、今はもうない。しかし、地名は今でも残っている。同じ北海道にある同じ地名でも、由来が異なることだってあるのだ。
さて、バスはしばらく住宅地を走った後、北見駅周辺の市街地に入っていった。前日に北見駅に降り立ったときにはあまり感じなかったが、通り沿いが比較的栄えていることに気がついた。さらに、駅前では再開発が行われていた。
北見に着いてまずは、上の写真に写っているデパートの最上階のレストラン街に向かい、名物の塩焼きそばを食べた。おばあちゃんが作ってくれる店で、メニューは塩焼きそば以外にもあったため、食堂のような店という印象だった。お昼時、レストラン街に来る人は割といたので、店に自分一人ということはないのがうれしい。
北見には、ヴォーリズという建築家が設計した建物が2つあった。現在の名前で、「北見ハッカ記念館」と、「ピアソン記念館」である。北見ハッカ記念館の付近にはかつての北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線(池北線)が通っていたことが偲ばれる道があった。街灯にはその線路の一部が使われていた。八幡製鉄所製と、イギリス製の二種類があった。そして、網走行の時間の都合で、内部を見学することもなく、ピアソン記念館へと移動した。高台に建っており、周辺は公園として整備されていた。周辺の住宅地には、ピアソン記念館の建物に影響を受けたのではないかという外観のものも見られた。
早足で北見駅に戻る。とは言っても下り坂だから、ある程度は慎重になる。雪に覆われた坂道の歩き方にもだいぶ慣れてきた。上り坂は歩きにくいが滑りにくい。下り坂は滑りやすいが、慣れれば比較的速く歩けるようになる。足をくじかないように気をつける必要はあるが。
北見に学校があるのだろうか、網走までは学校帰りの中高生が席についていた。網走に到着すると、そこからは観光客の世界へと突入する。釧路行の列車に早めに乗り込み、窓側の席を確保した。
札幌への大移動
釧路行の釧網本線は、3両編成と思いきや、後ろ1両は回送扱いだった。知床の観光客対策でわざわざ釧路から出向いてきたのだろうか。網走を発車する頃には、立つ人は出なかったものの、席がほぼ埋まっていた。観光客と思われる人は知床斜里でごっそりと降りて行った。半分くらいは残ったが、その多くが釧路まで乗車した。言うまでもない、乗り鉄だ。私が彼らと違う点は、この日のうちに札幌に行かなければならないということである。釧路で途中下車し、自由席券を購入した。実は以前、釧路から南千歳まで特急に乗車したことがある。その理由がひどくて、花咲線の乗りつぶしを終えて根室から東釧路へと戻り、その日のうちに網走まで行って網走のホテルに宿泊するという計画だったのだが、大雨により釧網本線が運休となった。東釧路で降りようとした私を、釧路まで乗るように運転士が引き留めてくれたため、その日は釧路で一泊となった。翌日釧網本線に乗り、網走から特急を使えば良かったのだが、翌日、フロントから電話がかかってくるまで寝てしまった。慌てて準備をして、その日の夕方に北斗星を撮影するため、特急に乗ったのであった。その際、自由席は終始空いていた。途中池田駅で牛肉弁当の車内販売が入ってきたのはいい思い出である。
特急車内では、本を一冊読み終わった。札幌まで、4時間弱の長旅である。札幌に着いたのは23時で、眠気と闘いながら南北線ですすきのへと移動した。地上に出ると、見たかった景色にようやく出会えた。ニッカウヰスキーの看板はすすきのの象徴である。
ところが、写真の容量が大きすぎるので、写真を貼るのは次回への持越しとなる。次回は、ホテルにチェックインした後、夜のすすきのに繰り出すところから始まり、最終便の1つ前のANA便で新千歳空港から羽田へ帰るまでを振り返っていく。2019年2月21日、北海道旅行最終日にして、一番長い一日へと突入する。