子どもに「人生の意味」を訊かれたらどうするか【塾講師の見解】

塾講師や家庭教師として子どもに身近な存在になると、「生まれる前はどうなっているの」「なんで自分たちは生きているの」「死んだらどうなるの」といった本質的な問いを質問されることがあります。こうした子どもたちは親御さんや他の身近な大人たちに同様の質問をしている可能性が高く、なかなか納得の行く説明をすることは難しいといえます。

最も現実的な答えは「自分もわからない」になるかと思います。ですが、自分も子どもの頃によく考えていた問いだけに、それだけ考えた結果が「わからない」というのは悔しいものがあります。塾講師たるもの、たとえ子どもに教えるものごとが実態とはかけ離れていたとしても、ある程度の説明で妥協して、納得させる(わかったつもりにさせる)ことが必要です。あくまでも雑談レベルに留めるというのも大切です。

まずは、人生についての問いが漠然的であるため、子どもがどこまで理解しており、どこからが理解できないかを把握する必要があります。これは、どこまで本質に踏み込んで話すかに関わってきます。ここからは、子どもたちが質問をする動機として考えられるものを挙げていき、それらに答えていきます。

「自分が今後どうなるかを知りたい」(小学校低学年?)

多くの場合は、難しい哲学的な答えを求めているわけではないと思われます。身近な人の死や、ニュースで報道される死などを見聞きしたことがきっかけであったり、死後の世界を記述する宗教的世界観に触れたことがきっかけであったりします。

しかし、生死に関わる現象をどこか他人事のように捉えている場合もあり、その場合は無理に自分のこととして捉えさせないほうが良いと思います。単純に「人生の先輩」の思うことに興味がある場合も多いです。そのため、以下のような答えになります。

Q:生きる意味は?
A:これから見つかる。学校ではみんな同じことを教わっているけれど、中学、高校と進むにつれて個性を活かせる場所が増える。
Q:死んだらどうなる?
A:先生もいつかは死ぬけれど、まだ死ぬわけではないのでわからない。かなり先のことなので先生もあまり考えていない。
Q:生まれる前はどうなっている?
A:先生も子どもの頃の記憶があまりない。時間が経つと忘れてしまうものなので、覚えていないのも仕方がない。

以上のような答えであれば、「わからない」と事実をありのまま伝えるだけでなく、本人に考えさせる余地を残すことができる気がしてきます。スタンスとしては、「あまり心配することではない」といった立場になります。

「自分とはなにか」を知りたい(小学校高学年?)

この段階になると、生死に関わる現象を自らのこととして捉えるようになります。その結果、生まれる前や死後に対して、「自分ではなくなる」感覚を覚えることもあります。また、「なぜ他の人としてではなく、自分として生きているのか」といった具合に、「自分という存在の特殊性」に関わる疑問を持つようになります。

その場合は、死などに対して「まだ先だから」といった考え方は通用しないと言えます。だからといって、「死んだら自分という存在は消滅する」と答えるのでは希望が持てません。子どもには未来があるのですから、少し場違いな答えという気もします。

また、自分が他の何億人もの人々のうちの一人であり、ちっぽけな存在であることを悟っている場合もあります。このような場合、「どうせ死ぬのに生きる意味」といった部分まで踏み込んで答えてあげると良さそうです。

Q:(いずれ死ぬのに)生きる意味は?
A:自分たちは物語の主人公のようなもの。中学、高校と進んでいき、最終的に社会に出ると、乗り越えられないような困難が立ちはだかっているので、仲間と協力したり、自分と闘うことによってそれらを乗り越えたり、回避していく。その中で自分だけの「人生の楽しみ方」を見つけることができたら物語はハッピーエンド。
Q:どうして人は死ぬの?(死にたくない)
A:物語はいつまでも続くわけではない。また、ハッピーエンドであれば物語が終わることも悲しくはない。
Q:自分がありふれた存在であることがつまらない。
A:ありふれた日常は、いくつもの奇跡の上に成り立っている。(例として)両親から生まれる子どもの遺伝子の組み合わせは70兆通り以上あるので、その中の1通りを引き当てたから今の自分がある。それ以外であったら、今の自分はいないかもしれない。

つまり、自分は他の人々と何ら変わりのない存在だけれども、そこに辿りつくまでに数多くの奇跡があった、という観点から日常のありがたみに気づくきっかけを与えてあげるということになります。

想像できない「無」に対する恐怖を和らげたい(中学生向け?)

生死に関わる現象を自分のものとして捉える段階を超えると、「形あるものは永遠ではない」という事実が世界全てに言える、ということを悟る段階に至ります。たとえば、宇宙が誕生する以前は時間すら存在しないといわれる、「ほぼ無」のような状態でしたし、宇宙内部で十分時間が経つと、ただ真っ暗で温度の低い、「ほぼ無」の状態に至ります。

この考えに至ると、何を自分の存在の拠り所とすればいいかが分からなくなる感覚に陥ることがあります。もちろん時間が経つとその疑問は頭から離れますが、決して納得したわけではないので、定期的にその疑問に直面することになります。

この疑問に対する答えは究極的には「人それぞれ」ですので、子どもに対しては「答えの一つ」としてあくまでも自分の考えを伝え、納得できなくても子ども自身が答えを導き出すことで、「納得した気になる」ことが大切であるということも含めて伝えると良いでしょう。以下はその一例です。

Q:死んだあとや、生まれる前の「何もない」という状態がよくわからない。
A:自分たちのように「実際にある」存在にとっては、「何もない」状態が仮にあったとしても、それがどのような性質を持っているかを言い当てることはできない。無理やり意味を持たせたところで、それはフィクションにしかならない。つまり、「何もない」状態は想像に過ぎず、本質的には自分たちとは関係ない。

問い:なぜ「何もない」ではなく「何かがある」のか(高校生向け?)

最後に私たちの存在に関わってくるこの問いに答えて結びとします。

A:世界が無限に広がっていると仮定する。また、ある位置(時間的・空間的)と、そこから無限に離れた位置における現象同士に因果関係はないと仮定する。ここで、「何もない」とは全てが存在しないという一つの状態であり、「全てが存在しない」状態、すなわち、無限に離れた位置でも「何もない」状態を取ると仮定すると、それらは「同じ状態である」という関係性によって定義されたことになる(この議論に自信はないが、私はそのように納得している)。
よって、無限の世界および、無限に離れた位置との無関係性を定義すると、全ての存在は確率的に決定される。その結果、無限の世界に内包される有限の世界は、有と無の間の状態をとる。正確には、有にも無にもなれる状態である。
私たちのいる宇宙は偶然に(確率的に)有という状態をとった有限(だが極めて大きい)の世界であるため、少なくとも有限の範囲において全てが無である可能性が排除された。
つまり何が言いたいかというと、「無」と「無限」は似た性質のものなので、それらを自由自在に行き来することで、少なくとも現実逃避にはなるということです。ただ考えすぎると、「死んだあとには何もない。世界は無限に続く。無が無限に続くってなんだ?」といった具合にわけがわからなくなるので、自分の人生観を定めるときには、「無」または「無限」のどちらか好きなポジションを選ぶことで、一貫性が出て良いのではないかと思います。子どもたちにはその2つの選択肢を提示するにとどめて、どちらを選ぶかは任せることにしましょう。
タイトルとURLをコピーしました