世界が「ある」理由は、世界が無限であるから【哲学】

量子力学の発展、統一理論の構築の過程で、宇宙は完全なる無から誕生したわけではなく、素粒子が生成しては消滅するという状態の中で誕生したことが明らかになり、宇宙以前にも世界が存在していたと捉えられるようになった。

この発見により、完全なる無から形あるものが生成するという可能性は、現段階では極めて低いものとなった。それでは、ここからは「無から形あるものは生成しない」という仮定を認めて、なぜ世界は、「全てが無であり、何も存在しない」という可能性を排除して、「何かが存在する」ことが可能であったのかを考察していこうと思う。

仮定1: 存在は関係性により定義される

「何かが存在する」ことは、その存在が一つで成立していることを意味しない。なぜならその存在の理由を、無限に広がる「無」に求めなければならないことになるためである。そして、最初の仮定の意味は、「無と存在は無関係である」ことであるといえる。

この矛盾を回避するためには、少なくとも、世界にたった一つだけの「存在」が、自己言及によって自らを定義する必要がある。この自己言及こそが「関係性」の一つの形である。つまりここでは、「理由がなく存在するものはない、つまり存在には必ず理由がある」という仮定をしている。

仮定2: 関係性は有限の範囲内にのみ定義される

有限の範囲内にのみ「存在」しており、その外部にあたる無限の範囲には「存在」しない、すなわち「無」である状態を考える。ここで有限の範囲外との関係性が存在すると仮定すると、やはり最初の「無と存在は無関係である」ことに矛盾する。

つまり、関係性は有限の範囲内のみに存在し、その中に少なくとも1つはある「存在」どうしが互いに言及することによって存在を可能としている。この仮定2は、仮定1を「存在の集合」に拡張したものである。

ここまでの2つの仮定は、「無から形あるものは生成しない」という前提から自ずと導かれる。

仮定3: 世界は無限である

この仮定が、前2つの仮定から「存在の妥当性」を導くために重要な役割を果たす。この状況下では、「全てが存在しない」と仮定すると、「なにも存在しないという一つの状態」が有限の範囲外にも存在することになり、これは仮定2に矛盾する。

「無」単体では存在を規定することはできない。それに対して「無限」を規定することによって、「無ではない、すなわち有」という状態が必ず存在するという状況を作り出すことができる。それでは、無と無限を定義したことによって作り出される「有」とはどのような性質のものだろうか。

無と無限の狭間における存在

無限を絶対的なものとして仮定したとき、その無限にとって、有限の範囲における「存在」は「無」のようなものである。つまり、無限にとっての有限は、有限にとっての無と相似であると捉えることができる。そして、それら3つの間には、無限、有限、無という順序はあるものの、互いに関係性はない。

それでは、有限の範囲内に、「無ではない」実体を定義することはできるか。答えは「できない」。ここで、有限の範囲内に1つだけ実体が存在するという状況を考える。このとき、これまでの仮定から、無限に広がる世界において、同様の状況、すなわち有限の範囲内に実体が存在しているという領域が他にも存在しているといえる。

これにより、有限の範囲外に全く同じ実体が存在している、という状況が作り出されることから、それらには関係性があるということになり矛盾する。

それでは、有限の範囲内で存在を可能にしているのは何か。それは「無」である。そして、それらの「無」が無限に集合することによって、有限の範囲に無限通りの関係性を構築している。それこそが「実体」の正体であり、「実体」には、それを構築する無限通りの関係性に応じた「個性」があると考えることができる。

このように考えると、ある場所と、そこから無限に離れた場所における実体の「個性」は互いに異なっている。正確には、互いに同じであることもあれば、互いに異なることもある。つまり、有限の範囲外における関係性は存在しないことが矛盾なく言える。

まとめ

有と無の二項対立だけでは、前者が後者から生じるような状況を定義することができない。それに対し、「無に対する有」の相似形として「有に対する無限」となるように無限を定義することによって、「無ではない、すなわち有である」状況を作り出すことができる。

そして、その前提のもとでは、存在は「無ではない実体」ではなく、「関係性をもった無の集合」により定義されることが言える。ここから先の議論は、有限の範囲における現象を扱う物理学や、「関係性なしに存在は成立しない」とする仏教などに任せることにしたい。

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