人生学概論【何もない世界でどう生きるか】

世界は関係性によって成立している

人は、ありふれたものを認識することができない。たとえば、壁にかかっていて、日付が書かれているものを私たちは「カレンダー」と認識する。しかし、ハサミでそれを切り刻んだ瞬間、それが「紙」であったことに気がつく。

人類は科学の発展とともに、ものを細かく切り刻むと原子になることを知った。それら原子の一つ一つに性質の違いはあるが、あくまでもそれらは非常に細かい粒として存在しているに過ぎず、それらに決定的な違いを見出すことはできない。世界はモノクロの点描に過ぎないのだ。

しかし私たち人間のみならず、眼を獲得した生物は、点描のように原子が集合する物質の表面で反射する、光の波長の違いを認識することで、ものの違いを区別することができている。思えば赤ちゃんは当然にして、波長の違いを区別できる目を生まれながらに持っているが、最初のうちは「光」としてしか認識できない。様々なものを視界に入れるうちにそれらの区別ができるようになって初めて、「もの」を認識できるようになる。

人が今こうして、世界を認識することができているのは、「ものの区別」すなわち、「情報」を周囲から得る能力を最大限まで発達させた結果であるといえる。人間原理が説明するように、人が存在しているから世界が存在している、というわけではなく、世界はもとから点描のような形で存在していたのだ。人間含め生物は感覚器を発達させたことで、その点同士の関係性という「情報」を効率よく取り入れているに過ぎない。

全てを知ることはできない

情報を取り入れることは、世界を再構築することに等しい。私たちが認識する以前に世界が存在するためには、点描を構成する点たちが集合しており、それらが関わり合いを持つことが必要である。点が単独で存在しているという状態は事実上の「無」であるが、それらが複数存在することで初めて「有」であるといえる。

このように無と有の違いを、関係性の有無で説明すると、あるものが「無」であるか「有」であるかは、観測者によっても変化する。たとえば、ここから無限の距離だけ離れた場所では、この宇宙における物理法則が適用できないため説明不可能となり、その場所が実際は「無」でなかったとしても、我々にとって見れば「無」となる。ここからはそのような性質の「無」を、「相対的な無」と呼ぶことにする。

情報を取り入れるとは、「相対的な無」を「相対的な有」に切り替えることを表す。視覚の獲得を例に説明すると、もともと区別のされない「光」として入ってきていた情報は、生まれつきの感覚器官の働きによって次第に区別されるようになる。また、焦点距離の調整という動作を通して奥行きも認識可能になる。つまり、はじめは認識することができていなかった細かな違いを、認識することができるようになったということだ。

人間は、情報を獲得する中で無意識のうちに世界を構築している。人間が意識の中で構築した世界は、あくまでも実際の世界の中で生存に都合の良い側面を抜き取ったものに過ぎない。しかし、これは決して悪い事実ではない。このような事実を自覚できるほどに、人間の情報獲得能力は成熟しているということだ。

一方で、人が新たに獲得できる情報は残り少ないといえる。宇宙の全貌が分かってきたとはいえ、知ることができるのは138億年前の宇宙誕生以降の情報であり、その情報が光速で到達可能な距離の範囲の情報のみと考えられる。その外側や、宇宙誕生以前の情報は想像することはできても、実際の情報を獲得することはできない。

こうして人は、今後も「全てを知ることはできない」という当たり前の事実を何度も再確認することになるだろう。それでは、これまで情報獲得能力を最大限まで高め続けてきた人間の存在意義は、今後失われていくのだろうか。

「社会の一員」としての存在意義

結論から言うと、情報獲得能力の極めて高い生物としての人間の存在意義は、最終的に絶滅に至るまで消えないと考えられる。人間はここまで情報獲得能力を高める段階で、多くの人が集合する社会を成立させてきた。社会はある程度効率化されており、一人が全てを知っている必要がない。

新たに情報を獲得することができる人や、情報の質を高めることができる人が社会に大きく貢献可能であることには間違いないが、「自分はここまで分かっており、ここまでできる」ということを理解して社会の中で動いている限りは、社会の一員としての役割を果たしているといえる。

そして、このような形態をとる社会は、少なくとも今後しばらくは必要となる。地球に暮らしている限りは気候変動や火山活動の活発化、隕石衝突やプレート運動の変化といったリスクが伴う。これらは地球上の多くの生物を絶滅へと追いやってきた前例があるため、人間もいずれそれらに直面することになる。このような直前まで予期できない現象に対処するためには、一定規模の社会が維持されており、ある程度の予測が可能になっている状態になっていることが望ましい。

また、宇宙は誕生して間もないため、太陽を含めた星の誕生・死に伴う物質移動はしばらくの間継続するだろう。このような変化の途上を生き抜く場合は、一定期間で構成要因が入れ替わるシステム、すなわち生物としての人間の存在を前提とした社会が好都合である。そして、仮にいかなる最善手を尽くしたところで絶滅が不可避であったとしても、「全てを知ることはできない」ため諦めがつく。そのときまで人間社会を維持する意義は、間違いなくあるはずだ。

無限の大きさ、無限の未来を想像すると存在意義は揺らいでしまう。しかし過去に目を向けると、「無限の未来」まで想像の余地に入れることができるようになった今までに、情報獲得能力を高め続けるのに貢献してきた人々の姿が見えてくる。そして、それは決して誰か一人の力ではなく、人間社会が維持され続けたことで初めて可能であったと思う。無限の世界から見ればちっぽけな存在であったとしても、「生きる」こと自体が存在意義足り得るということだ。

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