京都駅大解剖〈後編②〉~日本らしい建築とは~

 原広司の「様相論」は、「建築に都市を内包する」という言い方でも表される。建築の中の一部分に明確な境界を設けず、曖昧な境界でもってそれらを重ね合わせる。そのことで、建築全体で見ると時間的な変化が表れてくる、という考え方である。曖昧な境界や、時間変化は、日本人特有の感性であり、それが日本の伝統建築に表れているのである。日本建築の特徴として、「空間が一つに定義されない」ということが挙げられると思う。それを原広司は、西洋で興った機能主義に対峙させたのである。
 前回、京都駅ビルに見られる、三種類の「対比」について説明した。ここで、もう一つの対比を登場させたいと思う。
④ 機能と様相
 京都駅のファサード(正面のデザイン)を、ガラス張りにした理由は、京都の古くからの町並みに向かう玄関であることを踏まえ、京都駅ビルの本体となる建物に対して緩やかな境界を設けたいと考えたから、ということに尽きる。様相論の目標を達成するために、原広司は、建物を何層かの屋根で覆うという手法を用いるなどしている。今回の京都駅ビルのファサードは、その垂直版である。なるほど、原広司は、何層かの壁で覆うという手法も使うのか。いや、その考え方はどうやら間違っていそうだ。
 これまで述べてきた、水平移動と垂直移動の概念。これらは、その成り立ちからして異なるものとなっている。それぞれ、「地形」に対する向き合い方が対照的なのだ。水平移動の方は、地形に対して受動的に向き合っている。一方で、垂直移動の方は、地形に対する向き合い方が能動的なのだ。もう少しわかりやすく言うと、前者は地形を変えない中で快適さを模索し、後者は地形を変えて自ら快適さを創り出そうという姿勢である。この対比構造は、軸組造と組積造の対比に似ている。気候だけで全てを説明できると思っているわけではないが、前者は気候が厳しい地域、後者は気候が穏やかな地域と考えると分かりやすいと思う。日本は言うまでもない、軸組造だ。つまり、基本的に壁が構造を担うことはない。

 以上のことから考えると、京都駅ビルのファサードは「屋根」の一部だ。確かに何本かの柱で支えられてもいるし、本当の屋根とも連続している。このように、一つの構造物が、意図される機能と別の機能を兼ねることもある。
 機能に注目せずにファサードと屋根が一体となったトラス構造を見ると、それは前回述べたように、三角形の集合体のデザインに見えたり、京都の条坊制を抽象化したデザインに見えたりする。そして、そのデザインは、時間帯や四季に応じて姿を変えていく。このような移ろいは、日本におけるどの家にも存在するだろう。私たちがそれに注目しないだけである。
 私は、京都駅の建築や、原広司の「様相論」から、今後日本建築を考えるにあたって、最初の印象だけで分析したつもりになってはならないということを学んだ。一日中、あるいは一年を通して住まないと、設計思想が分からない建築だって日本にはたくさんあるのだ。さらに、自分が今後何らかの設計に携わるときには、インスピレーションだけに頼ることなく、それを裏付けるような論理や、思想、特に「日本人らしさ」を大切にしていきたい。日本人らしさ、具体的には八百万の神々の考え方である。八百万の神は、特定の場所にずっといて、その個性や機能をあまり主張しないながらも、その場所の人々を見守る存在として考えられてきた。今後の日本建築のキーワードはまさにこれで、「人々に寄り添う建築」が求められていくと思われる。私個人としては、「寄り添う」とは、押し付けるものではなく、建築に何かを語らせることだと思っている。そういった意味では、建築は広い意味では芸術である。あまりに主張が激しいのは、芸術ではなく、「芸術っぽい何か」に過ぎない。

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