仙台のカプセルホテルでは、ついつい夜更かししてしまった。翌日が最終日であるということで、油断もあったかもしれない。その結果、7時に起床して、山形県内の鉄道の乗りつぶしを行うという計画は、二度寝の衝動のもと無かったことにされ、結局起床したのは9時となった。
ホテルを出ると、昨晩の国分町の喧騒が嘘のように静まっていた。時はお盆休みであったにも関わらず、繁華街では「日常」が繰り広げられており、勧誘も多ければ、グループで来ている若者も多かった。しかし、夜の繁華街を歩く人たちはどこか、互いに干渉し合うことを避けているように見えた。仙台の繁華街にとっての日常は、そこに来る人たちにとっての「非日常」であり、朝にはそれぞれの居場所へと帰っていくのだ。
仙台駅の牛タン通りは、10時台にも関わらず、多くの人が食事を楽しみに来ていた。私もその一人で、朝食として牛タンカレーを食べた。待たずにカウンター席に着くことができたが、私が食べ終わって店を出るころには行列ができていた。
さて、昨日と同様、仙台市営地下鉄に乗り込み、南北線の南側、富沢方面を目指す。実は、前回(今年の3月)に仙台を訪れたときに、南北線の仙台~富沢間以外の仙台市営地下鉄全ての区間に乗車したのだ。今回の計画は、富沢まで乗りつぶしを完了させた後、1㎞ほどの徒歩にて東北本線の太子堂駅に行くことで、終点から戻る際に必要となる地下鉄料金を浮かせるというものだ。
太子堂駅が見えてきたが、駅は新幹線の向こうであり、入り口までは東側に回り込まないとたどり着けない。もう一息だ。
徒歩15分ほどで太子堂駅に着いた。ここから福島行に乗車し、東京へと戻る。予算の都合で、往復の運賃をかけたくないため、福島における飯坂線の乗りつぶしはあきらめ、まだ乗っていなかった烏山線の乗りつぶしをすることに決めた。
新白河に着いた。E721系の乗り心地は、E233系近郊型に近いものがあって作業にも集中できる。普段している大回り乗車の延長のような気分だ。
新白河では黒磯までの短い区間を運転するE531系が到着するのを待とうかとも考えたが、20分ほどなので座れなくても良いと考え、駅蕎麦を利用することにした。すると、駅蕎麦に「白河ラーメン」の文字が。そろそろ腹も減ってきた頃なので、ついつい食券を買ってしまった。
スタンダードなラーメンだったが、スープが麺にしみこんでいて旨かった。喜多方ラーメンと並列で語られることも多いご当地ラーメンのようだ。
ホームに降りると、すでにE531系が来ていた。新白河までE721系で乗ってきた客は皆新幹線に乗り換えたようで、車内はかなり空いていた。新白河駅の新幹線改札口では、「本日東京方面の指定席は20時頃まで満席です」というアナウンスがしきりにされており、Uターンラッシュを垣間見ることができた。
発車が近づくと、郡山から来た後続の列車からの客が続々と乗り込んできた。これは予測を誤ってしまった、やはりお盆の鉄道であった。この列車には全員が座ることができたとしても、黒磯で205系が4両編成となるため、「黒磯ダッシュ」で比較的前の方に並ばなければ座れなくなる。この結果で宇都宮までの1時間、座るか立つかが決まってしまうから皆必死だ。私はそれに負けて宝積寺まで立つことになった。
烏山行の列車には、後に来た黒磯行下り列車からの乗り換え客が多く乗り込んだ。宇都宮への通勤客も烏山線沿線には多いのだろうか。
人を乗せた列車が終点から折り返すときの列車は、いつも寂しい。しかし、その寂しさが私は好きである。自分が鉄道と一体化しているかのような感覚になれるのだ。自分がこの鉄道に乗っていなかったとしても鉄道は自身の使命を果たして走っていただろうし、自分が乗っていない他の大多数の日も同じダイヤで鉄道は走る。自分のいないところで世界は回っていく、この当たり前を否が応でも実感させられる。
私が行く先々に乗る鉄道は、本来自分が乗る必要のない鉄道である。しかし、その事実があるからこそ、気楽に鉄道旅行を楽しめるのだ。別に、車窓は見ることを強制しない。列車の中では自分のしたい作業に打ち込めるプライベートスペースを確保することもできる。そして、風光明媚な景色を見たいときに見られるという幸せもそこにある。全線完乗という目標も、かつては鉄道好きとしてどうしても達成したいというものではあったが、今では気楽に進めていこうという姿勢で、少しずつ目標に近づいている。
今回は、途中で札幌や函館に寄ったが、東北を一周するのがメインの旅となった。そして、その多くが以前に訪れた場所である。ほとんど変わっていないことに安心した。しかし、行く先々、同じ表情を見せる景色など一つもない。そのうち私が見ることのできた景色はほんの一部ではあるが、東京で生活することを通して鈍っていた感性を取り戻す手助けに、間違いなくなったと思う。
東京では、一人ひとりが社会の歯車として生きているということを実感しやすい街だ。そして、それぞれの歯車が、他の歯車とかみ合って互いに影響を及ぼし合っているということがよくわかる。そんな中で、独り回るだけの歯車は、「意味が無い」と言われる。近くの歯車ともとよりかみ合わないならば別であるが、かみ合おうともしないのだから当然である。
しかし、独り回っている歯車は、そこら中に動くくらいの能はある。かみ合わなかったら次を探せばよいのだ。それは東京を出て地方に行くというのでも良いし、東京の中でも生き方は様々な角度から探すことができる。しかし、日々生きるのに精いっぱいだと、他の生き方を探す余裕が無くなってしまう。それを避けるがために、私は「日本のどこか」を今日も旅している。
そして、次の旅が始まるのです