平成の備忘録③ 都市に埋蔵された田舎、田舎に埋蔵された都市

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第一章 山形県某所での会話

 新幹線のグリーン車の快適さを十分に堪能した私は、非電化のローカル線に乗り換えた。車両は「キハ110」という、この辺りではよく見られる車両だ。席はボックスシートになっており、二人一組の形で向かい合う座席と、四人二組の形で向かい合う座席が存在する。世間ではゴールデンウィークだと言われているが、帰省客や観光客と見られる人がいたのは新幹線までで、私のように気動車に乗り換えてくる人は他にいなかった。発車時刻が迫ってくると、高校生たちが乗車してきた。ここでは、いわゆる「ぼっち」はいない。特に元気の良いグループは席についてからも会話が途絶えなかったが、彼らは、ゲームばかりしている別のグループの人にも時折話しかける。

 そうか、同じ列車に乗る人たちの仲がいいのは、当たり前のことだ。列車が宮城県との県境に近づくにつれて、また、車両の外が暗くなるにつれて、高校生たちは、一人また一人と車両前方の出口へと足をすすめ、車内からではそこにあるのかすらわからないような暗さの中、それぞれの家へと帰っていく。いつしか、一番元気なグループの話題は恋愛話になっていた。「(人物名)、あいつと付き合っているらしいよ」の主語にあたる(人物名)は、おそらく今この車内にいる高校生全員が古くから知っていると思われる。つまり、地元がこの辺りで、中学校以前からの知り合いということだ。地元の知り合いが高校にいるというのは、ある意味強みでもあると思う。同じ地元の人間が、高校を舞台に「青春というゲーム」に挑んでいる姿に刺激を受け、自分もその「ゲーム」の主人公として多かれ少なかれ当事者意識を持つからである。現に、今付き合っている彼女がいない、すなわちこのゴールデンウィークを共に過ごす人がいない男子高校生は帰り際に、「非リアは非リアなりに耐えて過ごすわ」と寂しそうだった。

第二章 上京とは何か

 列車は宮城県へと入る前に、全ての高校生を降ろしていった。彼ら全員がそれぞれの青春を見つけていってほしい、と願うのは、十分に青春を送れなかった私の、彼らへの羨望も含んだ思いである。家業を継ぐ人もいれば、上京する人もいるだろう。それぞれの道に進んでしまえば、簡単には会えなくなる。東京の高校に通っていた自分からすれば、卒業してしまえば簡単には会えないとは思ってもみなかった。それぞれが似たような場所にある大学に進み、同じ時間帯の電車で高校に通っていた同級生にも容易く会えるだろう、とも思っていた。しかし、進路が違えば大学の学科も、時間割も異なる。同じ時間に同じ場所を目指して登校するという、高校における環境があまりにも特殊すぎたため、「会えないことが当たり前」とも思っていなかったのだ。その当たり前に気づいた人こそが、真に「一期一会」という言葉を理解し、青春を謳歌するのだ。

 都会の人の多さと、高校における人の密集度は、全く質の違うものだ。高校は都会であれ田舎であれ、数十人単位で少々狭い空間に置かれ、そこでは「繋がる」ことが自然と求められてくる。ところが、一旦社会に出ると、誰と繋がるも自由、もちろん誰とも繋がりを持たないのも自由である。そう考えると、高校生活というのは、実に「田舎的」ではないだろうか。私は、高校ではクラス替えごとに知らない面々が現れることに躊躇い、誰かと新しく繋がりを持つということも考えなかったが、とりあえずは顔見知りに声をかけて、そこから人脈を広げていくというのが正解だったのだろう。それらを怠った結果、卒業後には他人と腹を割って話せない性格になってしまった。そして、その性格は私の旅にも表れていて、現地の人々とは単に接客する・される以上の関係では無いものだと勝手に壁を作り、深く交流したことはない。「どこから来たの」と訊かれることもあり、「東京からです」と答えることも多々あるが、質問をこちらから投げかけることもない。こうして地元の人から話しかけられるのも「旅の演出」の一つであるかのようにとらえて受動的になってしまう。

第三章 日本というふるさと

 これは私の旅について誤解されやすいポイントかもしれないが、地方を旅する目的は、地元の人との交流ではなく、地元の人々になりきるためと言えるかもしれない。地方で生活することは、決して不便などではなく、私たちのように都会に暮らしている人々の生活水準に匹敵する。地方で暮らす、そうした人たちを「違う人たち」と捉えて無理に交流しようとするのではなく、「同じ人たち」と捉えて、彼らの生活に過干渉することなく、自分もその地方都市で暮らす人の一員になったつもりで過ごすようにしている。そういった意味では、日本全国「ふるさと」のつもりで日本の様々な場所を訪れるようにしている。その「ふるさと」に行ったところで、関わる人がいないんだったら「ふるさと」ではない、という声も聞こえるが、たとえばそこにラーメンを出す食堂があって、そのラーメンを食べて満腹になれば、そこはもう自分にとって立派な「ふるさと」である。

大船渡名物、さんまラーメン
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