私にとって存在とは、観測可能であることだ。
私が経験した歴史は一つしかない。
選ばなかった人生も、失われた時間も、今の私には観測できない。
しかし、私が観測してきた歴史だけが、唯一の可能性だったわけではない。
私たちが見上げる夜空にも、観測可能な宇宙の限界がある。
その向こう側から届く光を、私たちはまだ受け取っていない。
ブラックホールの事象の地平面の内側からも、外部の観測者へ情報を伝えることはできない。
しかし、観測できないことは、その先に何もないことを意味するのだろうか。
一般相対性理論は、事象の地平面の内側にも時空の構造を記述する。
宇宙論もまた、私たちが観測できる領域の外側へ広がる宇宙の可能性を排除していない。
私たちが観測できる世界と、理論によって記述できる世界は、必ずしも一致しない。
そして量子力学の多世界解釈は、さらに異なる種類の境界を提示する。
私たちが観測する一つの結果の背後に、環境との相互作用とデコヒーレンスによって、
互いに干渉することが事実上できなくなった別の分岐が存在するという、もう一つの世界の捉え方である。
そこでは、ある観測者にとって他の分岐を観測できないことは、
必ずしも全体の量子状態からその分岐が消滅したことを意味しない。
もちろん、それは無数の世界が実在することの証明ではない。
まして、私が選ばなかった人生が、どこかで今も続いていると断言できるわけでもない。
事象の地平面の向こう側と、デコヒーレンスによって隔てられた分岐は、物理学的には異なる。
しかし、私たちが観測できるものだけで、世界の全体を記述できるとは限らないという点で、共通の問いを投げかけている。
だとすれば、私が「存在しない」と判断したものも、別の視点、別の記述の仕方では、異なる意味を持つのかもしれない。
私が経験する歴史は一つである。しかし、世界を記述する視点まで、一つである必要はない。

